着衣の作法 脱衣の作法

中沢新一の「チベットモーツァルト」を読了。
この本はネパールでチベット人密教僧に弟子入りした著者が
構造主義現象学などの現代思想チベット仏教の共通性と差異性を分析することで
人間の意識の本質を示そうとした意欲作です。

単にチベット仏教を紹介することに終始するのではなく
かといってチベット仏教現代思想の枠組みに当てはめて解体してみせるのでもない
非常に面白い立ち位置の作品になっていると感じました。
ただその微妙な立ち位置のせいか、
或いは現代思想チベット仏教に見られる思想性が
それ自体非常に直感的に理解し難いもののせいか
とっても文系的で修辞に満ちた文章となっており
かなり読みづらかったです(文章はとてもうまいけど)。

詳しい内容はマニアックなので割愛しますが(僕自身よくわかっていませんし)
この本の一部を占める
「着衣の作法 脱衣の作法」は服や入れ墨に関する文章なので
ここで少し紹介したいと思います。

以下、引用です(かなり端折っているので注意)。

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入れ墨は身体という「自然」に加えられる根源的禁止であり、
この審美的暴行を通して人間は「自然」から「文化」への移行を特徴づける。
だがそれに劣らず重要なことは、
入れ墨が身体という多様体を禁止して、そこに身体の「表面」というものを
作り出す働きを持っているということだ。
おそらく南米のインディオたちはその想像力の中で
身体という多様体を、ユークリッド的な幾何学模様の描き込めるような
均質な平面としてつくりだすトポロジカルな変形をおこなっていたはずなのである。
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これは以前紹介した鷲田清一
「入れ墨は魂の地図である」
という言葉にも通ずるものがありそうです。
過去の記事へのリンクはこちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/margielamarni/18042873.html
魂を内包する、というより魂そのものの「場」である身体を
幾何学模様を書き込むことのできる「表面」としての皮膚に変換することが
入れ墨の一つの働きだと言うことができそうです。

中沢は続けます。

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ところで衣装も、入れ墨と同じように、
身体の「表面」を記号の連なりや幾何学模様の書き込める均質な平面として
作り出すはたらきをもってはいるが、
衣装はそのエレガンスさによって二重の禁止を行っているのではないだろうか。
衣装は入れ墨と同じように、身体というn次元の多様体を禁止して
平面的な表面を作り出す運動に力を貸している。
それと同時に衣装は、そのような禁止や抑圧がおこなわれているという事実を
直視することの禁止をおこなっているのである。
こうして衣装を身にまとうことで人間は何の外傷をうけることなしに、
やすやすと言語や社会や文化の中に、つまりは制度的なものの中に入っていけるのだ。
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中沢の言葉を借りれば、入れ墨を入れることは
「自然」から「文化」への移行を特徴づけるものでした。
同様のことが衣服を着用することについても言えます。
しかし衣服の場合は、身につけることが入れ墨に比べて容易なので
この「文化への移行」が入れ墨に比べると意識されづらい。

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民族衣装には時間と空間を限ったうえでの「遊び」も許されている。
華やかな祝祭の場に繰り出す仮装などが、そうした「遊び」を実現してみせる。
生まじめな入れ墨にはこういう「遊び」をおこなうことはまず不可能だろう。
たしかに、祝祭の仮装などは衣装記号の書き込まれる身体の「表面」を
いっときはなやいだ開放感につつんでくれる。
だが(このことは)身体を「平面」として産出する
あのトポロジカルな変形の向こう側には
決して踏み込んでいくことはできない。
衣装は、入れ墨と違っていつでも脱ぎ捨てることができる。
けれど衣装を脱ぐことで、人は「平面」として産出された身体の表面まで
脱ぎ去ることはできないだろう。
仮装によっても、異装によっても、また脱衣しても、
ついには人は衣装を脱ぎ捨てることはできないとさえ思えるのだ。
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「服を着るもの」という意識や文化が刷り込まれた状態では
たとえ服を脱いだとしても服をまとう平面として意識され
多様性を禁止された身体(皮膚)から
逃れることはできないということでしょうか。

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では近代社会のモードがとっているような戦略についてはどうだろうか。
モードは欲動をコード化して「社会体」の上に配分する
前資本主義的な社会のモデルを解体し、
再構成しようとする社会のユートピアを示している。
モードはかつて衣装のうえに働いていたコードの制約を解除し、
衣装という平面の上でおこなわれる、
あらゆる可能な差異の組み合わせに挑戦しているのだ。
そこではつぎつぎと生み出される新しい差異が差異として
いっさいの中心化をうけることもないまま、
自由な「遊び」にうち興じている。
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これはマルジェラの10ラインの発想に非常に近いと思います。
過去の記事へのリンクはこちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/margielamarni/21708752.html
既存の社会的コードを脱構築してみせるのがモードだと。

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けれども、ここでも、衣装という平面はすこしも傷ついてはいないのだ。
モデルたちはモードの中で、次から次へと衣装を脱ぎ捨てていく。
しかしモデルたちの身体には、いつまでも、金属色ににぶく光る
一枚の固い衣装がまとわれたままだ。
結局のところ、私には、たとえばミラレパのような人しか
本当に衣装を脱ぎすてるなどというまねはできなかったのではないかと思えるのだ。
ミラレパは、いつも薄い布だけをまといつけ裸体同然で暮らしていたために
人々から「ミラ・レ・パ(麻の布を着る人)」と呼ばれていた。
ある時、ひとりの弟子が師に裸体の意味を問うた。
するとミラレパはそれに対してただ
「自然なことだからだ」とこともなげに答えている。
ミラレパのような風狂の「遊び人」は、身体という多様体の禁止にはじまる
あらゆる表象の劇場をそっくりつつみこみ、
その多層的な世界を多層性のままに生きていくような生き方をよく知っていた。
衣装を着るにはマナーがあればことたりる。
だが、真に衣装を脱ぐには、よほど巧みに鍛え抜かれた精神的技法がなければならない。
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過度の単純化は危険ですが、簡単のために要約すると以下のようになると思います。

身体そのものは本来n次元の多様体である。
入れ墨、衣装はこの多様体を皮膚という平面へと変換するものであり、
同時に「自然」である身体を、「文化」や「社会」へと移行させるものでもある。
モードは既存の社会コードを脱構築して見せる「遊び」である。
しかしモードがもたらすのは「服を着替えること(差異化に興じること)」でしかなく
「服を脱ぐこと(服が規定する平面や文化から自由になること)」ではない。
真に服を脱ぐため必要なことは
着衣の持つ意味に無自覚になることではなく
その意味を理解したうえで多層性を受け入れ、多層性のままに生きることである。


マルジェラは中沢の言う「モード」をもっとも体現している(或いはした)
デザイナーの一人だと思います。

しかし彼のクリエイションにしても
つぎつぎと生み出される新しい差異(たとえばポペリズム、たとえばアイテムの斬新な組み合わせ)が
差異として機能する「遊び」でしかなく
一つのユートピアを見せているに過ぎないとも言えるわけです。


よく「服は社会的コードだから人に不快感を与えない服を着るべきだ」
という言葉を耳にしますが
服が文化への移行をもたらすものである以上、
これはある意味で正しいものなのでしょう。

また一方で、「服なんて好きなものを着ればいいんだ」
という言葉もよく耳にしますが
モードによる「既存の社会的コードの脱構築」が進んでいる現在では
あらゆるコーディネートが差異として成立しうるわけで
これもある意味で正しいものなのでしょう。

しかし、いずれの言説にしても
身体を一つの平面=皮膚として捉えているという点では共通であり、
身体の多様性を包摂しないという点で共通の限界を有しています。


一応服好きの僕としては
服を脱ぐ(服が規定する平面や文化から自由になる)のではなく
服を脱ぎながら(平面や文化から自由になりながら)も
やっぱり服を着たい(身体の多様性を認識しつつ受け入れ自然なこととして服を着る)のですが
そんなことは不可能なのでしょうか。