長文注意!

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今夜の爆問学問は東京藝術大学宮田亮平学長。

「一人でアトリエにこもって作品を作るのはよっぽどのことがない限り難しい。
美大には色々な作品や色々な学生がいる。
それらと自分自身を比較して自分の立ち位置を修正してみたり
本当は何がやりたいのかを考えるための土俵が美大だ。」

といった趣旨の発言をされていました。

この発想には非常に共感するものがあります。
僕は美大出ではないので美大のことはよくわかりませんが
これは大学全般に言えることだと思います。


今の時代、情報を仕入れようと思えば自宅でも十分な資料にアクセスすることが可能です。
自宅では不十分なら国会図書館なりなんなりに行けばいい
(実験機器などへのアクセスは難しいでしょうけれど)。

では大学の意味は何かと言うと
「周りの人との議論を通して自分の考えをさらに洗練させる、或いはより高次のものにするための場を提供する」
ということだと思います。

自分の案を周りの人に提示してみて、
色々な意見、批判を取り入れて(時には取り入れないで)
より適切に自分のやりたいことを表現できるようなアプローチ方法を考える。

これを可能にする場を提供するのが大学の役割だと思います。


しかし、実際に上記のようなアカデミックな議論を可能にするためには
いくつか必要なことがあります。

一番大事なのは本人が、「やりたいと思えること」を持っていること。
「やりたいと思えること」がガチガチには決まっていなくても
大体こんなことがやりたい位の気持ちは不可欠だと思います。
これがないと議論自体が成立しないし
仮に議論になったとしてもすぐに人の意見に流されてしまい、議論の着地点が見つけられません。

次に大事なのは、批判する人が、「非難」と「批判」とを区別できていること。
人の意見を批判する時、非難になってしまうことがよくあります。
その人が言おうとしていることは何なのか、そのどこに面白みがありそうかを自分なりに考えた上で
もっと面白くなるためにはどうすればいいかといった視点から
修正したほうがよいと思われる点や疑問に思った点を批判として
できれば対案も添えて提示することが重要だと思います。
その人の意見のどこに面白みがありそうかを考えようとせずに
技術的な問題点などを指摘して「こんなんじゃだめだ。」と言ってしまうと
批判(これは非難ですが)された方は
「ああ、おれの案はだめなんだ。。。価値がないんだ。」
と思ってしまいがちです。
「おれ、お前のやりたいことは何でもやらせてやりたいと思ってっからさ。」
おぎやはぎ化する必要はない(それではアカデミックな議論はできませんし)と思いますが
その人の持っている面白さを生かすために批判するという
基本姿勢を持つ必要はあると思います。

最後に大切なのはこのような「アカデミック場」を保証できる教員の存在です。
教員自身が「やりたいと思えること」を持っていてそれを追求していれば
学生も「やりたいと思えること」を見つけていきやすいように思います。
あとは「非難」と「批判」との区別を明示するのも教員の役目ですし
議論の中で「非難」が出た時、それをフォローし、議論の軌道を修正するのも
場がちゃんと形成されるまでは、教員の役目だと思います。
教員自身が権威を笠に着て「非難」を行った場合、それはアカハラです。


とまあ自省も含めて長々と書いてしまいましたが
非難と批判を区別することなんかは
一般のコミュニケーションにおいても重要なんじゃないかと思っていたりします。