ヴォーグオムジャパン創刊号とエディスリマン

イメージ 1

いまさら感がありますが、ヴォーグオムジャパン創刊号について
書きたいと思います。
今回はかなり独断と偏見に満ちております。

創刊が決まってから各所で話題になっていたヴォーグオムジャパン。
今後年に2回のペースで発行されるそうです。


「男らしさは既にエディスリマンが崩壊させてこれからはジェンダーレスだ。」
というのが創刊号の趣旨のようです。

実際、創刊号にはエディスリマンが撮った写真やロングインタビューが掲載されており
その他にも加茂克也の装飾に満ちたヘアメイクや脱毛の特集などもあって
趣旨に沿った誌面作りが行われているように感じました。
写真もきれいだし、気合入ってるなあと。


ただ僕としては全然グッとこなかったんです。


そもそも
エディスリマンが既存のマッチョな男性性をぶち壊して
新しい男性像を打ち出しました。
よし!男も着飾って脱毛して美しくなろうよ!」
っていう趣旨に全く賛同できないんですよね。


僕はエディスリマンの服は持っていませんが彼のことは好きです。
彼にはマルジェラにはないすごさがあると思っています。
マルジェラは既存の服を幅広く知った上で自分の服を作っていると思うんですが
エディスリマンは既存の服から多くを学んで服を作っているわけではなく
彼自身の感性に基づいて彼の頭の中の「美しい服」を作っているんじゃないかと思うんです。
そして彼の頭の中の「美しい服」は、人を強く惹きつけるものがある。

感覚的な話になりますが、以前話題にした文系と理系の区分↓で言うと
http://blogs.yahoo.co.jp/margielamarni/25433881.html
僕の中でマルジェラは文系、エディスリマンは理系なんです。
マルジェラの服には歴史が見える。
過去に蓄積されてきた膨大の服(とそれらに関する知識)が透けて見える。
エディスリマンの服には歴史は見えない。
ただそこに一着の完璧に美しい服(一つの本質)がある。

そんなわけで僕はエディスリマンは尊敬しています。


ではなぜエディテイスト満載のヴォーグオムジャパンは好きになれなかったかと言うと
エディスリマンのクリエイションにごちゃごちゃ色々付け足したら雑多な感じになっちゃったから」
というのが一番自分の感覚に近いと思います。


エディスリマンは美しくてアンドロジナスな男性が好きだとは思うのですが
世の男性みんなに、美しくてアンドロジナスになってほしいと思ってはいないと思うんですよね。
そもそもエディスリマンに「着飾る」っていう発想があるんでしょうか。
「自分がその場その場に必要だと思ったものを選んでいったら
結果的に人から見たら装飾的だと言われるものになった」
ということはあったとしても
「着飾ろう」や「もっとみんなに着飾ってほしい」という意識はないような気がします。


エディスリマンのクリエイションを既存の男性性へのカウンターとして捉えてしまうと
結局彼のクリエイション自体が相対化の対象になってしまうと思うんです。
勿論、何事も相対化の対象になって然るべきなのですが
エディスリマンのクリエイションは他の服と比較され、相対化されて
その良さに気づかれる種類のものではなく
ぱっと見た瞬間美しいかどうかが直感的に判断されるべき種類のものだと思うんです。

「歴史的観点から位置付けなくても単体として既に美しい」

それがエディスリマンのクリエイションだと思います。


ヴォーグオムジャパンはエディスリマンの服を
男性性という一つの歴史の中に位置づけ、
さらにはそこから今後の方向性を見出そうとしてしまっている。

そのやり方は違う、と僕は思います。