ハーフェズ ペルシャの詩

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ハーフェズ ペルシャの詩をDVDで見ました。

何故この作品を見たかといえば麻生久美子の顔が好きだからです。
大好きなんです。

しかし作品を見ていくうちに
麻生久美子の顔が好き→主演俳優の顔が好き→イスラム文化が美しい→深みのあるストーリーに心酔
という風に評価が変わっていきました。


以下多少のネタバレを含みます。

主人公シャムセディンは若くしてコーランを暗誦するハーフェズの称号を得た後、
地方有力者の娘で、海外での生活経験が長いナバート(麻生久美子)の家庭教師に任命されます。
しかしそこで不貞(日本ならば到底不貞とは呼べない程度のものなのですが)を犯し
ハーフェズの職はおろか、住む家や家族をも失います。
そしてナバートは父である地方有力者の言いつけにより
父の弟子(彼の名前もシャムセディン)と結婚させられてしまいます。

主人公シャムセディンはナバートへの愛を諦めるために
鏡の誓願という7つの村の7人の処女に鏡を洗ってもらう旅に出ます。

一方、ナバートと結婚したシャムセディンは
鏡の誓願は本来、愛を成就するための行であり、
背徳行為だとの命をうけ、主人公シャムセディンの行を止めるため彼を追いかけます。

愛を諦めるために旅をするシャムセディン(主人公)と
その旅を諦めさせるために旅をするシャムセディン。


主人公のシャムセディンはハーフェズという地位にありながら
ナバートとの不貞といい他のエピソードといい、
「もうちょっと考えろよ~。思慮深くなればそれは避けられるだろ!」
と思わされるような行為を繰り返し、
しばしば罰せられ、しかしその一方で奇跡を起こし人々から感謝を受けます。

他方、追いかけるシャムセディンのほうは教義に従順でありながら
旅を続けるうちに、時に問題を起こし、罰せられ、
しかし一方で奇跡を起こし自身もハーフェズと呼ばれるようになります。

ハーフェズと呼ばれながら教義を踏み外すシャムセディン
教義に従順でありながらハーフェズと呼ばれていくもう一人のシャムセディン。
立場は違えど徐々に近づいていく2人。
両者ともに名前はシャムセディン。
2人を結びつけるのは「鏡」を磨くという鏡の誓願

2人のシャムセディンはそれ自体鏡像です。
より客観的なシャムセディン(鏡像自我)が追いかける
よりいきあたりばったりのシャムセディン(自我)。
2人の生き方が交差する先にあるのは彼らそれぞれが惹き起こす奇跡。
そして最後に出会う重要他者(ナバート)。

この映画ではイスラムの教義、文化、因習は必ずしも否定の対象ではありません。
自由主義的な愛を「求める」生き方ではなく
愛を「諦める」生き方から生まれる奇跡。

1人(或いは2人)の必ずしも思慮深いとはいえない人間が惹き起こす奇跡。

個人の判断が正しいのか、それとも社会(システム)に従うのが正しいのか、
対象そのものを求めることが対象そのものを得ることにつながるのか、
そんな思考を促す、映画という形式を取った散文詩です。