中澤佑二さんの話

昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」での中澤佑二さんの話。

プロフェッショナルとは...
「見ている人を幸せにすることができて
楽しませることができて
その人を見て夢を見ることができる、
そういう存在がほんとのプロフェッショナルなのかなと思います。」

観客あってこそのプロスポーツ選手らしい発言だと思うのですが
なぜか僕の心にも響きました。


僕の知人に二人、すごく有能な人間がいます。
一人が仕事の中で大事にしているのは、その仕事の社会的意義。
もう一人が大事にしているのは新規性。

社会的意義と新規性は排反ではありません。
ある仕事が新規性を有していればその仕事は社会に出やすくなり
結果として社会貢献につながります(=社会的意義をもつ)。

逆に、ある仕事に社会的意義があっても
それがもうやりつくされている分野で、
もはやその仕事に何の新規性もなければ
今その仕事をする社会的意義はあまりないと言えます。

社会的意義を指向しても、新規性を指向しても
最終的な結果という点では
両者には大差ないのかもしれません。


しかし仕事に対する姿勢という点では
両者には大きな違いがあります。

社会貢献を目指す前者は(多少誇大妄想かもしれませんが)
「世の中を少しでもよくしたい」
と思って日々仕事をしています。
それが言動の端々に見える。

一方、新規性を目指す後者は
「新しい仕事をして自分の能力を認められたい、世に出ていきたい」
という思いが強く、
それが何かにつけて透けて見えます。

しかし先ほども申しあげたように
彼らは仕事に対する姿勢に違いはあっても
彼らがもたらす結果自体は大差ないので、
業績主義(メリトクラシー)の観点からすれば
両者は同等ということになります。


ここで改めて冒頭の中澤佑二さんの言葉。

プロフェッショナルとは...
「見ている人を幸せにすることができて
楽しませることができて
その人を見て夢を見ることができる、
そういう存在がほんとのプロフェッショナルなのかなと思います。」


これを一般的な仕事に置き換えて考えてみると
「人を幸せにする・楽しませる」というのは
その人の仕事の「結果」が
どれだけ素晴らしいかによるところが大きいように思えます。

他方、「その人を見て夢を見ることができる」というのは
勿論、結果がついてこなければ憧れの対象にはなりづらいのですが
その人の生き方、存在自体への憧れという部分も大きいように思えます。

僕の知人の話で言えば、両者とも「結果」として
「人を幸せにする・楽しませる」
ことはできているのではないかと思います。

しかし、「その人を見て夢を見ることができる」という点では
僕は新規性を指向する後者よりも
社会的意義を指向する前者の姿勢に夢を見ます。


「人に夢を見せる」というのはとても難しいけれど
メリトクラシーの先に求められるのは
実はそういう要素なのではないかと
考えさせられました。