村上春樹 「僕はなぜエルサレムに行ったのか」

文藝春秋4月号に村上春樹さんの独占インタビューが掲載されていました。

エルサレム賞を受賞しイスラエルで受賞式典に参加してきた村上春樹さんが
なぜ、どのような思いで式典への参加を決めたのか、そこで何を伝えたかったのかが
13ページのインタビュー記事として掲載されています。

以下、僕が気になった部分を引用します。

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体制やシステムと、ひとりひとりの人間の心との関わりは、
僕が作家として一貫して書き続けているテーマです。
(中略)
「システム」という言葉にはいろんな要素があります。
われわれがパレスチナ問題を考えるとき、
そこにあるいちばんの問題点は、
原理主義原理主義が正面から向き合っていることです。
シオニズムイスラム原理主義の対立です。
そしてその強烈なモーメントに挟まれて、
一般の市民達が巻き添えを食って傷つき、死んでいくわけです。
人は原理主義に取り込まれると、
魂の柔らかい部分を失っていきます。
そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。
原理原則の命じるままに動くようになる。
そのほうが楽だからです。
迷うこともないし、傷つきこともなくなる。
彼らは魂をシステムに委譲してしまうわけです。
(中略)
ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、
いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。
翻訳という作業を通じて、
皆が僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。
一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、
ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。
おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、
大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、
自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、
日和見主義と糾弾されて排除されていった。
その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、
それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。
そういうのを二度と繰り返してはならない。
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特に最後の数文に強く共感しました。

僕はネット上で主にファッションについて書かせていただいていますが
ネット上でファッションについて言及する上で重要なことは
「いかにファッションを論理的に破綻することなく語ることができるか」であり、
「いかにファッションが好きか」や「いかにファッションを楽しんでいるか」ではないのではないかと、
感じることが少なくありません。

勿論、僕は僕なりに論理性を持ちたいと思っていますが
それが「正論」であると思い込み始めてしまうと怖い気がします。
しかし今後絶対にそうならないとは言い切れない気もします。
しかし自分の意見が「正論」だと思ってしまったら
その先にあるのは「終わりなき啓蒙活動」と「優越感ゲーム」だけなのではないかと思います。
村上春樹さんのインタビュー記事は、
相手を説き伏せるのではなく一緒に考えることの必要性や
一つの言動をもって一人の個人を否定しないことの必要性について
改めて考えるよい機会となりました。