村上春樹 1Q84

村上春樹の新作、1Q84を読みました。


デビュー作「風の歌を聴け」から
「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「ダンス・ダンス・ダンス」あたりまでの彼の作品は
「デタッチメント」がテーマになっているとよく言われます。

主人公は一人称の「僕」であり、
その「僕」は、ひとりでビールを飲み、料理を作り、レコードを聴き、プールで泳ぎ、
独自の行動規範に基づいて生活・行動する。

「僕」は村上春樹自身であり(微妙に違うと本人は言っているようですが)
「デタッチメント」は村上春樹自身の社会に対する姿勢である(あった)ように思えます。


その後に、地下鉄サリン事件をテーマにいた「アンダーグラウンド」や「約束された場所で」、
阪神大震災をテーマにした「神の子ども達はみな踊る」など
社会問題を題材にした作品を発表し、
自身の興味が「デタッチメント」から「コミットメント」へと移ってきたと
村上春樹本人が語っています。

また、「アフターダーク」では物語の主語が
一人称の「僕」から、物語には直接的に関与しない観察者の視点である「私たち」に変わりました。

僕はアフターダークを初めて読んだ時、面白いと思う一方で
「社会というマクロなものにコミットメントしようとすると俯瞰的な視点を持たざるを得ないのかな。
村上春樹の個人哲学めいた行動規範のようなものにはもう触れることはできないのかもしれないな。」
と少し寂しさを感じたのを覚えています。


さて、そこで今回の1Q84ですが、
個人的には初期の「デタッチメント」と後期の「コミットメント」の中間のような作品だと感じました。
物語の主語は「天吾」と「青豆」で、
一人称の「僕」でも第三者としての「私たち」でもありません。

作品の中には「宗教」「暴力」「満州」「喪失」「セックス」「少年(少女)期の性」など
今までに村上春樹が小説の中で何度も取り上げてきたテーマ達が総登場し、
さながら「過去取り上げたテーマの集大成」といった印象です。

そして、そのテーマのどれもが
誰一人として完璧ではない登場人物たちによって、時に否定され、時に肯定されます。
この作品の最重要テーマの一つは「宗教」だと思いますが
その「宗教」すら、痛烈な批判を投げかける登場人物が描かれる一方で、
それを肯定する(無意識的に肯定してしまう)登場人物が描かれており
結局、宗教が善なのか悪なのか、その答えは描かれていません。

その描き方を見る限りでは、村上春樹
「何事も良い面と悪い面がある。
或るものの良い面を語る人がいたとしてもそれはそれで偏っている可能性がある。
悪い面を語る人についても同様だ。」
というようなことを言いたいのではないかと感じました。


初期の村上春樹の作品においては
「僕」の行動規範が
村上春樹の思想(≒デタッチメント的なもの)を表すものだった。

後期の作品においては
村上春樹が取り上げるテーマ(≒地下鉄サリン事件阪神大震災)が
村上春樹の問題意識(≒コミットメント的なもの)を表すものだった。

そして1Q84では
登場人物の配置やそれぞれの言動、さらに言えば物語の構造そのものが
村上春樹の思想(≒二元論や原理主義への抵抗)を表すものとなっている。

そしてそのどれもが方法は違えど、村上春樹の「社会への向きあい方」を表している。

「彼の小説は彼の社会への向きあい方、そのものである。」
個人的にはそのように思えました。


最後にこの物語の続編の有無について。

僕の好きなブログ、wear do /cross-cultural reviewさんは
1Q84村上春樹の小説について以下のように書かれています。
wear do /cross-cultural reviewさんへのリンクはこちら↓
http://punkature.blog77.fc2.com/

---------------------------------------------------------------------------------------------
小説の読み方には大きく言って二通りの方法があると思う。
簡単に言えば、登場人物や語り手になるべく感情移入して「直視的」に読む方法と、
書かれている主題について思索を巡らして「俯瞰的」に読む方法とである。
つまりは、同じ目線から読むか斜め上から身構えて読むかという違いだが、
前者はいかにストーリーに入り込むことができるか、
書かれていることに共感できるかということが問われることになり、
他方、後者はこの小説が書かれた視点、存在する意味自体が問われることになる。

もちろん読者は各々の視点から好きなように読めば言い訳だが、
一つ注意しなければならないのは、前者の視点からしか読めない小説というのもあり、
同様に後者の視点からしか読めない小説というのもあるということだ。
例えば、本谷有希子川上未映子のような作家は
後者の視点から読むべき作家なのではないかと僕は思う。
彼女たちはどの立ち位置から語ろうとし、何を問題とし、
そして「文学」という方法によってどのように表現しようとしているのか、
ということが何よりも問われなければならないのだろう。

読者が個人的な感想を持つのはもちろんかまわないし、
作品あるはい作家に対して個人的な好き嫌いが生じるのもまた当然だろう。
しかし、そうしたものから作品の良し悪しを判断し、
amazonのレビュー欄などで語るのは間違っていると僕は思う。
それらはあくまで「感想」であって、けっして「批評」たりえないのだ。

村上春樹の小説は、きわめて「距離感」の取りにくい作品である。
いつも読み進めるうちに「読み手」としての自分の立ち位置がわからなくなってしまうのだ。
まるで自分という存在と世界との不安定で不明確な関係のように。
だからこそ彼の小説は奇妙な魅力を放っているのだろう。
---------------------------------------------------------------------------------------------

たしかに村上春樹の作品は距離感が取りづらい。
ノルウェイの森なんて主人公に共感してストーリーを読み進めていくと
最後の最後で置いてけぼりにされてしまう。

それはこの1Q84も同様で
ここで終わりだな、結構きれいに終わりそうだなと思っていると
最終章でいきなりストーリーが加速してしまい
物語の中で減速し切らずに終わってしまう。

そのためか1Q84には続編があるのではないかという人も多いようですが
僕は続編はないと思っています。

あれは村上春樹
「どうすればうまく行くかなんて、小説の中に(そして現実においても)その答えはないよ。
それでも、やるしかないんだ。」
というメッセージなのではないかと。

僕はあの最終章に「消えた2ページ」のエンディングに通ずるものを感じました。


追記:

大事なことを言い忘れました!

この本は面白いです。
「買い」です。