アーキテクチャとしてのコムデギャルソン

シンヤヤマグチさんが2009年12月7日の繊研新聞一面に掲載されたという
川久保玲のインタビューを転載されていたので、孫引きさせていただきます。

全文はリンク先を参照ください。
http://blog.high-heel.jp/?eid=83412

以下、気になった部分の引用です。

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一つの洋服が何かものを言う時代ではないですね。

襟がどうしたとかシルエットがどうしたとか、
そういうことだけでは新しいことを表現できない時代になっている。

コムデギャルソンとしては服だけではなくて、
会社の進み方自体が新しくなくてはいけない。

(中略)

運営の仕方、売り方、ビジネスの方法論など、
今までなかったことを実行しなければ、
かっこいい新しい会社にはなれない。

クリエーションしていないと思うんです。

(中略)

安く安くっていうので、大きな閉塞感に向かいつつある。

いいものは高いんですよ、簡単に言えば。

安いものが悪いとまでは言わないけれども、
それはまた一つの目的で成立するので、
どっちかがいいとは言えないわけ。

両方あってもいいですけれど、時間をかけて考えて作ったものが
どうしても高くなる。高いけれどいい価値がある。

その価値観がなくなったら、人間、前向きじゃなくなりますよね。

進歩がないですよ。
それで、最後は閉塞感に陥っちゃう。

高いものはいいんだってことをメディアは伝えてほしいんです。

(中略)

ダイレクトにやりたいことや気持ちを伝えるのはやぼなんです。

もう少し人に考える時間や感覚を差し上げて、
コムデギャルソンの服に戻ってきていただく、
よく分かっていただくっていうっていう遠回りなやり方もします。

(中略)

昔みたいに一つの服をクチュール的に作りこんでいれば
いいという時代じゃないので、
もう少し視野を大きく、方法論を大きくです。

作るものが個人的な小さいものでも
クリエーションといわれた時代ではないので、
今はもっと大きい物を作らなければダメだと思います。

そういうことができる学校なり場所が必要ですね。

もし学校でそういうことができないのであれば、
システムの問題です。

でも今、デザイナー兼経営の両方ができている人は、
そういうことができる人じゃないですか。

本当に大きいクリエーションをやりたければ、
表現の材料は服そのものではないです。

もうちょっといろんな材料で表現しないと。

それがこれからの人には大事かな。

そういう頭の構造、回路を持っている人はなかなかいないけれど。
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このインタビューを読んで僕が真っ先に思いついたのは
川久保玲は所謂「ファッションデザイン」ではなく
アーキテクチャ」を志向しているんだな、ということでした。

批評家の東浩紀が監修している思想誌「思想地図 vol.3 アーキテクチャ」によれば
アーキテクチャとは「建築、社会設計、コンピュータ・システムの三つの意味を持つ言葉」であり、
現代社会において人間の生活にいつの間にか入り込んで人々の行動を制御する
工学的で匿名的な権力の総称にもなっている」のだとか。

アーキテクチャ=人の行動に何らかの影響を与える構造、或いはシステム

という図式でしょうか。

川久保玲に話を戻すと、彼女は、上のインタビューからも伝わるように
「服をデザインする」だけではなく、
「もっと大きい物」を設計しようとしている。

今、彼女が設計しようとしている、そして実際に設計し続けているのは、
コムデギャルソンの「服の見せ方」であり
コムデギャルソンという「ビジネスモデル」であり
さらには、彼女の考える「いいもの」が売れるような「社会の在り方」であったりする。

そして、彼女がそれを実現するために用いている「コムデギャルソン」という存在は
アーキテクチャ」そのものであるように僕には思えます。

ポストモダン社会の思想地図と完全に連動する形で、
しかも実際の商業活動を伴いながら活動を続ける川久保玲には
尊敬を超えて、畏怖の念すら覚えます。