ベタであること

僕はベタな人間です。

好きなメンズブランドはマルタンマルジェラ
好きなレディースブランドはマルニ
好きな作家は三島由紀夫村上春樹
好きなミュージシャンはミスターチルドレン
好きな俳優はエドワードノートン
好きな女優はスカーレットヨハンソン
好きな映画はアメリカンヒストリーXとウェイキングライフ。

まあ好きな俳優以降はそこまでひどくベタではないと思いますが
好きなミュージシャンまでは
かなりベタだと思います。
重症です。
そして本当に意識してMで始まるものを選んだわけではないのですが
ドMなラインナップになりました。

まず服についてですが
ベタなものが好きだからといって
それ以外には目もくれないというわけではないんです。
色んなものを見るようにしているつもりですが
結局買うのはマルジェラの商品になってしまいます。

このような偏りの原因としては
マルジェラの服のデザイン性と質の高さやコンセプトの面白さも勿論あるのですが
自分の趣味嗜好が形成されていく過程自体に
マルジェラの服が影響を及ぼしているということが考えられます。

つまりどういうことかと言うと
最初にマルジェラの服を
「あ、面白い服だな」
と思い、手に取ります。

その後、マルジェラのコンセプトに共感し
マルジェラを好きになるわけですが
長年マルジェラ好きでいると、
いざ服を探そうと思った時、もう無意識的に
「一見普通に見えるけどあそびのきいた服はないかな?」
「ゴテゴテした足し算じゃなくて引き算がうまいデザイナーはいないかな?」
という視点になってしまいます。
これって言い換えれば
「マルジェラっぽい服はないかな?」
ということなんです。

そうすると結局はマルジェラに行き着くわけです。

「マルジェラだから好き」なのではなくて
「マルジェラ的なものが好きだからマルジェラが好き」なのです。
マルジェラが価値観自体に影響しているわけです。
こう書くとなんだか怖いですね。

上の図式はマルジェラの部分を他のブランド名に置き換えれば
一見どのブランドにも当てはまるような気がします。

しかし実はこれを成立させるのは意外と難しくて
継続的で一貫したブランドイメージのコントロールと商品の提供が必要となります。
これが一貫していないと
「2004年までのヴィクター&ロルフは好きだったけど
それ以降はあんまり好きじゃないなあ」とか
「ギャルソンもプレイ出したり商業的な香りが強くなったよね」
など、よく言われているような批判につながってしまいます。
こうなると
ヴィクター&ロルフ的なものが好きだからヴィクター&ロルフが好き」
という図式は成立せず、
「2004年までのヴィクター&ロルフ的なものが好きだけど
どこかにあんな感じの服ないかな?」
ということになってしまいます。

(一応言っておきますが、マルジェラもディーゼル傘下に入ってから変わってきていますし
ギャルソンも上記のような批判は聞かれますが
僕自身は本質的にはそんなに変わったとは思っておらず依然好きなブランドの一つです。)

服を通して価値観にまで影響を及ぼすというのは
才能とそれを発揮し続ける継続性を併せ持つ
デザイナーにしかできないことのように個人的には感じます。

話をベタに戻します。

三島由紀夫村上春樹
正反対の作家ですね。
三島由紀夫は理性、村上春樹は無意識の作家だと思います。

三島由紀夫も「音楽」など
フロイト精神分析を下敷きにした作品を発表していますが
その本の中でも三島の目はやはり理性的・意識的な部分に向いていると思います。
無意識が言い間違い(という表層的な行為)につながるとか。

対して村上春樹は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」など
ユング心理学との親和性が非常に高い作家です。
「僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル
-そういうものがもしもあればということだが-
を大きな鍋にいっしょくたに放りこんで原形が認められなくなるまでに溶解し、
しかるのちにそれを適当な形にちぎって使用する」
と村上自身も言うように
彼は無意識的に何も考えずに小説を書いているのではなく
無意識の部分(大きな鍋と原型をとどめなくなったマテリアル)を用いながら
戦略的に「積み重ねて弁証法的に」小説を書く作家だと思います。

長く書きましたが三島由紀夫が意識的だろうが
村上春樹が無意識的だろうが
そんなことは結構どうでもいいんです。

なぜ僕がこの2人のベタなメジャー作家を好きなのか。
これはマルジェラを好きな理由とは多少異なり
「三島的なものが好きだから三島が好き」
というのではしっくり来ません。

これについては吉本隆明
著書「真贋」の中でいいことを言っています。

「文句なしにいい作品というのは、
そこに表現されている心の動きや人間関係というのが
俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。」

まさにその通り!

三島由紀夫の心理描写、村上春樹のデタッチメントとコミットメントの姿勢は
「これは俺にしかわからんだろ!」
と思わせるものがあります。

勿論実際は大人気作家なんだから
みんながわかっているわけですが。

ミスターチルドレンに関してもそうです。
彼らの「HERO」の歌詞は
そんなことはないと思っていつつも
「いや、やっぱりこれは俺にしかわからんだろ!」
と思ってしまいます。

問題は、吉本のこの定義が「文句なしにいい作品」についての定義であることです。

ベタ=いいものなのでしょうか。
そうなるとベタな人間である僕は
いいものを知る人間なのでしょうか。

ひょっとしたらそうなのかもしれません。

しかしたとえいいものを知る人間であっても
ベタで固めた人間が面白いでしょうか。

吉本はこうも言っています。
「一芸に秀でた人に人格者は少ない」

ベタないいものを知りつくすスキのない人間がいたとしたら
きっと彼(もしくは彼女)は人格者でしょう。
(そういう人は自分の人格もいいものであろうとするでしょうから)
しかし人格者が一芸に秀でることは少ないとなると
ベタなものが好きな人は
その人自身も(何かに秀でることのない)ベタな人
ということになってはしまわないでしょうか。

マルジェラやギャルソンは服好きの到達点と言われることがあります。
でもマルジェラやギャルソン好きが
本当におしゃれでしょうか。
ベタじゃないでしょうか。

批判の的にされますが
チョキチョキに出ている人達だっておしゃれだと思います。
でもベタな人たち(いい物を知る人たち=多くが服オタ)から見れば
やりすぎだったり、流行に振り回されているように見えて
バランスは悪いかもしれません。
でもそれは一芸に秀でているということなのかもしれません。

色んなものを比較して取捨選択しているうちに
どんどんベタになって行きます。

こんな事を考える時
ミスターチルドレンの「乾いたキス」の

「こんなにも自分を俯瞰で見れる性格を少し呪うんだ」

という歌詞がいつも頭をよぎります。