独り言

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どうして服が好きなのでしょうか。


ある人はこう言います。

「ファッションとはある意味で身体或いは皮膚の延長であり自己表現の一種であるが
そもそも自己というもの自体が不確定であり、
それを表現しようとする被服行為そのものもまた幻想との戯れでしかない。」

果たしてそうでしょうか。


ある人はこう言います。

「服なんて要は自己満足なんだからさ。着たいものだけ着ればいいんだよ。」

果たしてそうでしょうか。


またある人はこう言います。

「女の子(或いは男の子)にモテるためにおしゃれする。他に理由がいるの?」

果たしてそうでしょうか。


ファッションの一側面としてみればどれも正しいのでしょう。
僕自身にも大いに当てはまります
でもなんだかしっくりこない。
どの意見も当てはまるけど上記の議論では語りつくされていないものがある気がします。

それは何か。


僕にとって服を着るという以前に
服を買うという行為は一つの大きな「選択」です。

どの服を選ぶのか。
どこの服を選ぶのか。
なぜその服を選ぶのか。

さらに服を入手した後には

何に合わせるのか。

といった選択にも迫られます。


臆面もなく大きいことを言いますと
人生とは「選択」の連続ではないでしょうか。
自由と言い換えてもいいかもしれません。


自分の感性に従って服を選ぶことを通して
僕は「選択」を実感します。
しつこく繰り返せば「自由」を実感すると言ってもいいかもしれません


服は買わないという「選択」もあるでしょう。
流行に乗るという「選択」もあるでしょう。


ただ、ファッション業界のトレンド戦略を少しでも知ってしまい
流行に踊らされて流行の服を買わされている自分に気付いてしまったら
流行の服を選び取る自分に「自由」を見出せなくなってしまいます。


だから流行に批判的になったり理論武装したりする。
流行に逆らって自由(或いは自由意志と思われるもの)を守るために。
そして今度は理論に縛られて自由な判断ができなくなったり。。。


そんな繰り返しです。


考えた挙げ句、直感に立ち戻り、また考える。


そうやって考え続ける、考え続けていることを選択している存在が
僕なんでしょう。


ファッションについて語る際
服を着た自分がどう見えるかといった視点からの議論も重要なのでしょうが
服を着るまでに至るプロセスにおいて何が起こっているのか、どのような判断や選択が下されているのか
も議論の対象にして欲しいと願います。
そしてそれは服だけでなく建築、インテリア、絵画、映画、音楽、食事など
美意識にかかわる全ての問題に共通するテーマのような気がしています。


最近は、上記のような「選択する(投企する)主体としての自己」と
「選択肢の減少を諦めて受け入れていく自己(姜尚中の言う諦めのダンディズム)」とのバランスが
僕のテーマなのですがその話は長くなるのでまたの機会に。。。