ラグジュアリー:ファッションの欲望展に行ってきました

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京都国立近代美術館で今日まで開催の
「ラグジュアリー:ファッションの欲望展」に行ってきました。


会場は4部構成。

セクション1は「着飾ることは自分の力を示すこと」
17世紀から19世紀にかけての絢爛豪華な宮廷服、20世紀のオートクチュールが展示されています。

セクション2は「削ぎ落とすことは飾ること」
1950年代前後の機能性を重視した服が展示されています。

セクション3は「冒険する精神」
コムデギャルソンの今までにない服を創ろうとする精神を表現する服が展示されています。

セクション4は「一つだけの服」
メゾンマルタンマルジェラのアーティザナルラインの手仕事による服が展示されています。


お分かりいただけるように各セクションは概ね時系列で並べられています。

17世紀~19世紀におけるラグジュアリーとは即ち自己を顕示するものであったのだけれど
時代の変遷に伴いそれは、機能的な美を有するもの、知的好奇心をくすぐるものへと変化していき、
最終的に、逆説的ではあるけれども、「手仕事」の価値が見直されつつある。

というのがこの展示の全体的な見解ではないでしょうか。

「ラグジュアリー」の変遷という意味ではそれはそうなのかもしれません。


ただ僕は少し違うことを感じました。


僕からするとセクション1と2は「着る人を引き立たせる服」という意味では
同じもののように思えました。
美しいものを身につけたい、着飾りたい、自分をよく見せたいという
シンプルな欲望を満たすための服という意味では両者に違いはないのではないかと。

しかしセクション3「冒険する精神」の服になると
これは明らかに異質なものになってきます。
セクション1と2の服があくまで「着る人を引き立たせる服」であったのに対し
セクション3の服は「デザイナーが自分の思想を具現化した服」であるように思えました。
ギャルソンの服は川久保玲そのものであると。
ここで主体は「着る人」から「デザイナー」へとすり替わっている。

そしてセクション4「一つだけの服」になると主体はさらにすり替わります。
アーティザナルラインのコレクションを見ていて僕が感じたのは
「手仕事は素晴らしくて価値がある(ラグジュアリーだ)」ということではなく
「(バッジやかつら、トランプ等に代表される)物が服になっている、それ自体が面白い」ということでした。
そしてここにおいて、服における主体が
「デザイナー」から「物そのもの」へと移っているように感じずにはいられませんでした。

かつて「着る人を引き立たせる服」であったものは
「デザイナーが思想を具現化した服」に変わり
さらに「物から作られた服」になっている。

服はかつて「着られること」を目的としていたのだけれど
現代では(少なくともアーティザナルラインにおいては)服が服であることそのものが目的化している
と換言できるかもしれません。

注:
アーティザナルラインにおいて
人間はその服を作る過程で「手仕事の提供者」として関与しています。
そしてアーティザナルの服はきっと誰かに着用もされるのでしょう。
しかし僕には、手仕事の提供者として人間が関与していること、そしてそれが誰かに着られることが
この服が持つ魅力の大部分を説明するようには思えないのです。
やはりアーティザナルラインの魅力は「物が服になっていること」なのではないかと。


ポストモダン社会では人間を含めた全てが相対化の対象となりえます。
全てがフラットに扱われうる。

そんな社会の中で、かつて「人間」を引き立てる存在だった「服」を含む「物」は
「人間」と並列される立場になりつつある。
これを人間の主体性(特権性?)の損失と嘆くべきなのか
服(より広義には物)がその存在感を獲得しつつあると喜ぶべきなのかはわかりませんが
このラグジュアリー展が時代や価値観の移り変わりを感じることのできる
よい展示会であったことは間違いありません。


最後に少々極論を。

上述したようにもし、服が人間にとって代わりうるのであれば
今後多くの人間は「強い服(デザイン的な意味でもそこに込められた文化的・歴史的な意味でも)」を
求めなくなる可能性があります。
文字通り「人が服に負ける(或は、服に着られる)」可能性があるからです。
ファストファッションのような軽い服(曖昧な概念ですが)が人気を集めている背景には
ひょっとしたらこのような意識が働いているのかもしれません。

となると今後、人は服に多くを求めなくなることが考えられます。

ではその時、かつて服に向けられていた欲望はどこに向かうのか。
僕はそれは人間そのものに向かうのではないかと思っています。
つまり身体改造です。
ネイル、エステ、アンチエイジング、整形etc…
服に力を注ぐと服に負けてしまう可能性がある。
ならば自分自身に力を注ごうと。

「ラグジュアリー:ファッションの欲望展」を見て
そんな考えが頭をよぎりました。