すぐれものぞと町中騒ぐ、マルタンマルジェラとは何者か? 前編

本日はイギリスはindependent紙の
93年の記事をご紹介したいと思います。

記事のタイトルは
「Who is that guy everyone's talking about?:
Roger Tredre delves into the world of the secretive Martin Margiela,
one of the hottest names to emerge from the fashion underground this year 」

記事へのリンクはこちら↓
http://www.independent.co.uk/life-style/fashion/news/style-who-is-that-guy-everyones-talking-about-roger-tredre-delves-into-the-world-of-the-secretive-martin-margiela-one-of-the-hottest-names-to-emerge-from-the-fashion-underground-this-year-1454463.html

若干、耳が痛いところもあるのですが
93年当時の空気を感じることのできる貴重な記事だと思うので
(ちなみにこの記事はindependent紙がmargielaの名前をタイトルに冠した初めての記事でもあります)
勇気を出して訳してみたいと思います。
表現の正確さを求める方は原文にあたっていただければ幸いです。
誤訳などありましたら、ご指摘いただけると嬉しいです。

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93年春の時点で、マルタンマルジェラは恐らく世界で最もファッショナブルなデザイナーだと言えるだろう。
ファッションのアンダーグラウンドの世界では、彼はもう何年にもわたって有名な存在であった。
業界の人間は誰もが彼の名前を知っていた。
だが、実際に彼の服を買う者は多くはなかった。
彼は服飾の学生やi-Dマガジンの読者といった人間からのみ、愛される存在だったのだ。
しかし今、彼の時代がやって来た。

マルジェラはパリに住み、驚くべき服をデザインしている。
しかしそれ以上のことは、誰も知らない。
1988年に彼がファーストコレクションを発表した際、
彼はプレス関係者に対して話をすることもしなかったし、自分の写真を撮らせることもしなかった
(私もトライしたがダメだった)。
それは別に彼がジャーナリスト嫌いだからというわけではない。
彼がシャイだからというわけでもない(彼の友人曰く、彼は実際にシャイではあるそうだが)。
マルジェラは人々に、彼自身ではなく、彼の服を見て欲しいのだ。
こういった、「見る者や着る者に自分の作品の魅力を理解することができるか試す」というスタンスは
芸術家には昔からよく見られるものだ。

あなたはパリのいたるところで彼を見かけるかもしれない。
レストラン、クラブ、ファッションショウなどで、だ。
一度、私が彼に話しかけた時、彼は肩をすくめたり、なにやらぼそぼそと口ごもったりしていた。
これには非常にイライラさせられる。
なぜなら、彼はデビュー当時から、
エキサイティングであると同時に、
どう解釈すればよいのか我々の頭を悩ませる服を
作り続けているからだ。

マルジェラはファッションのルールを破った。
彼は高級な服と蚤の市で手に入れたような服を、
ミックスしたり、形や素材を換えたりすることで、一つのファッションにしてしまう。
そのプロセスにおいて彼は、
「ファッションとはどうあるべきか」という従来の考え方に対して戦いを挑み、
我々に「見慣れたアイテムの新しい着方」を提示する。
彼のアプローチは、世のデザイナーが今まで散々使い古されたデザインを何度も焼き直し続けている現状に
新鮮な空気を送り込んでくれる。


マルジェラ。
長身で、ひょろっとした彼は、
アントワープ王立芸術学院が、1980年代中盤に輩出した、才能溢れるデザイナーのうちの一人だ。
彼はフランダース地方のリンブルグはゲンクの出身で、
アントワープ王立芸術学院でファッションを学んだ。
同期にはダークビッケンバーグやアンドムゥルメステール、ドリスヴァンノッテンなど
世界的な名声を勝ち得たデザイナーがいた。
マルジェラはベルギーの農場のためにレインコートをデザインした後、
イタリアに移り、商業デザイナーとして働き始めた。

アントワープ時代の同期たちがBritish Designer Showで旋風を巻き起こしていた頃、
マルジェラはパリにいた。
ジャンポールゴルチェの下での仕事を得ようと努力していたのだ。
「彼は5回も6回も、とにかく何回も応募していましたよ。」
とは彼の友人の談。
結局ゴルチェは、彼に仕事を与えざるを得なかった。

1988年、マルジェラはゴルチェのスタジオを出て、自身のブランドを立ち上げる。
ごくわずかの予算しかなかったため、
マルジェラはイタリアのブランドのコマーシャルラインのデザインをし、そこで得たお金で、
自身のブランドでは、個人的なビジョンを妥協を許さずに追及することに勤しんだ。
彼のファーストコレクションはヨーロッパのアバンギャルドなショップのバイヤー達の興味を惹いたが
実際にオーダーした者は少数だった。
その少数のうちの一人が、
アントワープにあるハイファッションストア、Louisのオーナーであり
マルジェラの初期からのサポーターである、Geert Brulootだった。

「ファーストコレクションは衝撃的でした。」
とBrulootは言う。
「そしてそれは『時代の空気の発露』でもありました。
マルタンは、『今、何が始まろうとしているか』を知っていたんです。
『あの時代の空気が、何を孕んでいたのか』を。
彼は数シーズン先のことを見据えていました。
最も日常的な服を、まったく新しい着方で見せる、ということです。」

一風変わった場所で行われるファッションショーは、マルジェラの名声を高めた。
1989年10月、マルジェラはパリ20区、瓦礫の散らばった荒地でショウを行い、センセーションを巻き起こす。
プラスチックのドレス、張り子のトップス、
袖を剥いだジャケット、オーバーサイズのメンズトラウザーズを身に纏ったモデル達は
急場しのぎのランウェイを、よろめきながら進んでいた。


(続く)
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